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■受付時間 9:00~18:00(予約優先)
シャリー・プトラーと文殊と普賢
釈尊の教えは旧約聖書同様、最初は口から口に伝えられる口伝でした。その教えが
文字に書かれるようになったのは、釈尊が亡くなられて、二~三百年ほど後のことで、
それから七百年くらいまでの間に書かれたものが、現在のお経であり仏典です。
釈尊が亡くなられると、それまで黙っていた者が、急に私は釈尊からこのように聞いた、
あのように聞いた、と言い始め、それが本当の神理と混ざり現在まで残されている、お経
や仏典になっていきました。このように聞いた、あのように聞いた、と勝手なことを言いだ
した代表格が、文殊と普賢です。

シャリー・プトラー(舎利弗)は釈尊の右腕として、時には釈尊のかわりに説法をし、
多くの人に釈尊の正法神理をより分かりやすく伝え、そうして智慧第一と称されました。
ところが現在では、智慧といえば「三人よれば文殊の智慧」といわれるように、釈尊の弟
子の中で、十大弟子でもなかった文殊が、智慧の菩薩といわれるようになっています。
この文殊の話がでてくるのが「維摩経」で、維摩という大商人が病気になり、釈尊が十大
弟子を見舞いにやろうとしますが、十大弟子は皆この維摩にやり込められたことがあるた
め辞退します。そうして最後に登場するのが文殊で、文殊が智慧をつかって維摩をやり込
め、あの十大弟子でもかなわなかった維摩でさえ、文殊の智慧にはかなわなかった、と
いうことで「文殊の智慧」といわれるようになります。
しかし、これはまったくの創作で維摩という人物は実在しません。
それに文殊という人は、釈尊が生きていられた時は、釈尊の弟子というだけで高弟でも
なんでもなく、ただの目立ちたがり屋にすぎませんでした。

ところがこの目立ちたがり屋の文殊が、釈尊が亡くなられた後「年をとったあの人達(十大
弟子や他の釈尊の高弟達)はどう言っているか知らないが、私は釈尊からこのように聞い
たのです」と騒いで回ったことが、人から人へと伝えられていって、釈尊滅後数百年もす
ると、文殊が適当に語ったことまで真実のように伝わり、維摩経のような小説の教えまで
つくられていきました。
本来なら「三人よれば舎利弗の智慧」というのが正しいのであり、文殊など後世に名を残す
人物などではないのです。
釈尊の弟子というだけで、適当に語ったことまで周りの人々は信じ込んでしまい、後々まで
伝えられてしまう、このような目立ちたがり屋の罪は極めて重いのです。

そうして、この文殊と同じような目立ちたがり屋だったのが普賢です。普賢も「あの年取った
人達は、釈尊のようになりたいと懸命に禅定をしているが、あんな禅定のやり方で悟れる
わけがない。私は禅定はこのように教えられた」と、勝手なことを言いまわり、それが伝えら
れていって、数百年後には法華経の最後にでてくる「観普賢菩薩行法経」というお経にまで
なっていきます。
普賢も釈尊の教えを聞いていたのですから、釈尊とまったく違うことを言ったわけではなか
ったのですが、しかし、普賢も文殊と同じように釈尊の高弟だったわけでもなく、ただの目立
ちたがり屋の弟子にすぎませんでした。同じ釈尊の弟子で同じように釈尊の教えを聞いて
も、シャリー・プトラーや他の十大弟子が伝える禅定と、普賢の伝える禅定では自ずと差が
ありました。当然、普賢の伝える禅定の方が未熟であったのですが、普賢は十大弟子をけ
なしておいて、自分の話をしたから「普賢は偉い」ということになり、釈尊在世当時にはまっ
たくたいしたことがなかった、普賢まで評価を受けるようになっていき「観普賢菩薩行法経」
という、お経まで後の時代につくられることになってしまいました。

しかし、文殊も普賢も釈尊の弟子の時代には、まったくたいしたことがない未熟者であり、
それが、もっと上の釈尊の右腕とまで言われたシャリー・プトラーや他の十大弟子より、
評価を得ているのはまことに遺憾で、逆にいえば当時の人々が、このようないいかげん
な連中の言葉までも、釈尊の正法として聞いてしまい現在まで、その教えが残っている
ということに恐ろしさを感じますが、それでも、そのような間違った教えばかりでなく、今日
残っているような形で、釈尊の教えである仏教が残ってきたのは、シャリー・プトラーが
生前に理論的にまとめていたものが中心になっています。

シャリー・プトラーは釈尊の教えを一瞬で理解することができました。だからこそ四十五年
間にわたり、正法神理を説かれた釈尊の多くの言葉を、より分かりやすく衆生に語り、まと
めることができたのです。
現在は釈尊の右腕といわれたシャリー・プトラーより、間違ったことを勝手に言いまわった
文殊や普賢の方が有名で評価を受けていますが、それは大きな間違いであり、シャリー・
プトラーがいたからこそ、曲がりなりにも今日まで仏教は伝えられ、それによって多くの人
が救われていくことになりました。
釈尊の偉大さは、その右腕であったシャリー・プトラーが存在したことにより、多くの人々に
伝えられました。それは釈尊とともに、シャリー・プトラーもまた偉大なる人物であったから
です。
by gtskokoro | 2009-06-24 18:01
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