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■代表者 大矢由紀夫
 
■所在地 〒456-0062
愛知県名古屋市熱田区
大宝一丁目1番1号
ヴェルクレート日比野A棟216号
■TEL&FAX (052)683-5150
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■受付時間 9:00~18:00(予約優先)
カテゴリ:未分類
  • 最後に……。
    [ 2009-07-21 15:25 ]
  • 異次元の世界
    [ 2009-07-20 16:33 ]
  • 釈尊の慈悲と予言
    [ 2009-07-17 16:57 ]
  • シャリー・プトラー⑥
    [ 2009-07-16 15:33 ]
  • シャリー・プトラー⑤
    [ 2009-07-15 15:56 ]
  • シャリー・プトラー④
    [ 2009-07-14 15:36 ]
  • シャリー・プトラー③
    [ 2009-07-13 16:46 ]
  • シャリー・プトラー②
    [ 2009-07-10 15:39 ]
  • シャリー・プトラー①
    [ 2009-07-09 15:40 ]
  • あるプロ野球選手との出来事②
    [ 2009-07-07 17:09 ]
最後に……。
最後に自分の師のことを書いて、このブログも終わりにしたいと思います。

私の師であった園頭広周先生は、高橋信次先生の後継者(色々異論のある方は多いでし
ょうが)として、数十年の間、法を説き続けてこられました。そして亡くなられる三年前に倒
れられ、寝たきりになられてしまいました。
寝たきりになられたとたん、先生の弟子の中からも先生の悪口を言いたてる者が、でてき
たのは誠に遺憾なことでした。園頭先生は多くの病人を癒され、多くの奇跡を起こされまし
た。その奇跡を見て、助けられた人も大勢いたのです。そのような人達が、先生の悪口を
平気で言っているのです。この人達の心の軽さにあきれました。そればかりではなく、先生
のお体が不自由になられたとたん、先生を自分の友達のように扱い、ずうずうしい態度をと
りだした弟子もいました。師と弟子との間は、どこまでいっても師は師であり弟子は弟子で
す。弟子は師への一線を越えてはならないのです。

園頭先生は講演をされるときなど、必ず高橋先生のお写真に合掌されておりました。高橋
先生のお話をされるときでも、常に高橋先生を立てていられました。高橋先生は亡くなられ
ていたとはいえ、園頭先生は高橋先生との師弟の関係は常にもっていられ、尊敬の念を
忘れたことはありませんでした。そんな師弟関係を目の前に見ていながら、師のお体が不
自由になられただけで、友達のような態度を平気で師に向かってとる弟子達がいたのです。
師の悪口を平気で言っている弟子や、友達のように接した弟子達は、師の体が健康であっ
たなら、そのような悪口を言ったり、友達のような態度をとれたのでしょうか?そんな態度は
絶対取らなかったでしょう、なぜならそのような人達は師が健康な時は、師を神様のように
拝み、奉っていたからです。

このような人達が急に態度を変えられるのは、師の体しか見ていないからです。師の心は
まったくかわっていないのに、体しか見ていないからこのような態度を、師に向かって平気
でとれるのです。この人達は師のもとで何を勉強していたのでしょう。あれほど心が大事だ
と師が説かれていたというのに……。

師が寝たきりになられたため、多くの人が師を批判しました。法を説く人があんな寝たきりに
なったんではだめだ、だの、罰があたっただのと、しかし、こういう人は師の苦労を何も分か
っていない人達にすぎません。師はもう八十になろうかというご高齢でした。その高齢な方
が、もう何十年も重いカバンをもって全国を駆け回っていられたのです。そればかりではな
く家に帰れば本の執筆はある、悩みの電話はかかってくる、手紙の整理と返事は書く、と
ゆっくり家で休む暇もなく、また講演に出かけて行かれるのです。こんな生活を続けていら
れて、体を壊さない方がどうかしている、現実に師は病院の先生に、今日の講演は休みな
さい、と何度も止められていたのです、病院で点滴を受けられて、そのまま講演会場にいか
れたことも、何度もあったのです。師のこんな苦労も知らず、寝たきりの部分だけ見て、あ
れではだめだという人など、師のことを何も分かっていない人達なのです。
高橋先生もそうでした、自分の体は二の次にして、全国を駆け回りお体を酷使した結果、
過度の疲労からくる膵臓と肝臓の悪化で亡くなられました。如来と言われる方々は皆、
自分のことを二の次にして人のことを考えます、そのため体を壊され、最後は亡くなられ
るのです。自分の命を人々に捧げられるのです。

私は、その如来のことを少しでも知ってもらおうと、このブログを書いてきました。このブロ
グを読まれた方で、如来の法というものに興味をもたれた方は、ぜひ、ご自分で勉強して
いっていただきたいと思います。今、如来の法を正しく継いでいられる人はいません。
しかし、如来の本は残っています。その本を読み、実践していくしか如来の法が分かる方
法はありませんが、いずれ大きな奇跡が起こることになります。起こることになりますが、
その奇跡を理解するには法を知る以外にありません。一人でも多くの方が、大奇跡を目
の当たりにすることを、願ってやみません。どうぞ多くの方が、如来の法を理解されます
ように…。ありがとうございました。


by gtskokoro | 2009-07-21 15:25
異次元の世界
出口王仁三郎という人がおります。この方は宗教家で「霊界物語」という81巻からなる本を
口述されたということで有名ですが、この方が口述された霊界物語の中には、天人、天女
がでてくる神界から、鬼や蛇がでてくる地獄界まで、様々なあの世の世界がでてきます。

この出口王仁三郎という方は、死後の世界すなわちあの世の世界を、多くの人々に知らせ
る使命を持って生まれてきた人でありましたが、残念ですが出口王仁三郎氏の霊界物語だ
けでは、多くの人にあの世(霊界)の存在を知らせるまでには至らなかったようです。現在
のほとんどの人が、死後の世界を信じていないのが、そのよい証拠ですが、しかし、科学の
世界で死後の世界(異次元の世界)や霊の存在、輪廻転生を認め始めた現代、科学の発
達が死後の世界を裏付けてくれることになり、もう数十年もすれば、死後の世界を信じない
人は非科学的で遅れた人達といわれるようになるでしょう。なぜなら現時点においてさえ、
死後の世界がないという根拠はまったくありませんが、あるという根拠はたくさんあるからで
す。

死後の世界の一番分かりやすいものが臨死体験でしょう。そんなものは夢だの幻覚だのと
文句をつける科学者も多いのですが、この臨死体験は一度心臓が止まって、死んだ人しか
体験してないことや、体験したことが、多くの人が非常に似通っているということが、死後の
世界を裏付ける一つの証拠となるのではないでしょうか。一度死んで息を吹き返した人が、
同じような夢や幻覚を皆が皆見るのでしょうか?親子、兄弟といえども同じような夢や幻覚
など、そうは見ません。臨死体験をただの夢だ、幻覚だ、などという科学者の根拠を聞きた
いものです。

臨死体験は、幽体離脱、トンネル体験、一生を振り返る、死者との再会、あの世(きれいな
花園など)にいる、光の存在など、幾つかありますが、臨死体験者が皆、同じような体験を
していることが、大きな特徴です。臨死体験の体験談をレイモンド・A・ムーディー・Jr.著
「光の彼方に」より抜粋してみましょう。

<私の心臓が止まったって言ってるのが聞こえたけど私は天井の所まで昇ったんです。そ
こからはみんな見えました。天井のすぐ下に浮かんでたから、私の体を見た時、それが私
だってわかりませんでした。それから、あれは私だってわかったんです。廊下に行ったらお
母さんが泣いてるのが見えました。どうして泣いてるのか聞いたんですけど、私の言うこと
が聞こえなかったようです。先生方は、私が死んだと思ってました。
それから、きれいな女の人が近づいてきて私を助けてくれたんです。私が怖がっているのが
わかったからなんです。私達はトンネルを通って天国へ行きました。あそこは、きれいなお花
が咲いています。神様やイエス様と一緒にいました。神様達は、私に、お母さんの気が動転
しているから、お母さんの所へ帰らなきゃいけないっておゃしゃったんです。一生をきちんと
終えなきゃいけないんですって。それで私は戻ってきて、目が覚めたんです。
私が通ったトンネルは、長くてすごく暗かったんです。そこをすごいスピードで通り抜けまし
た。トンネルの向こうに光が見えて、それを見た時、すごくうれしかった。私は長い間、またあ
そこに行きたいと思っていたし、今でも、死んだらあの光の所へまた行きたいと思ってるんで
す……。あの光はすごく明るかった>

このような体験例は、何十、何百とあり死後の世界を裏付ける証拠といっても、さほど問題
がないようにも思いますが……、まぁ唯物論の人達が多い世の中、なかなか、はいそうです
か、とはいかないのでしょう。では、死後の世界がないと言っている方の中で、死後の世
界がないという証拠を出せる方がいれば、ぜひ、その証拠を見せていただきたいものです。
死後の世界を認めていない科学者はたくさんいますが、死後の世界がないという証拠を見
せてくれた科学者を、私は一人も知りません。証拠もないのにないというのは非科学的だ
と思います。

私は如来の教えを学び、その如来が死後の世界すなわち次元の違った世界はある、とい
い、現在の心ある科学者が証明してくれた、有力な経験的証拠がたくさんあるから、死後の
世界はある、と言っているのです。根拠も証拠もなしに、ただ自分がそんな世界は信じられ
ないからない、と言っている人の意見とは違います。この世界は、死んでしまえばすべて終
わり、などという単純な世界ではありません。この世界は、物質の世界だけでなく、幾重に
も重なる非物質の世界、意識界(霊界)もあるのです。

あの世、すなわち死後の世界は存在します。そこが私達がやがて帰るべき、安住の地とい
うことになりますが、ただし、臨死体験にでてくるような天国ばかりではありません。
出口王仁三郎氏の霊界物語にでてくる、鬼や蛇がでてくる世界もあり、皆が皆、天国へい
けるわけではないのです。やったもん勝ちで、悪いことをしてもばれなきゃそれでいい、など
と思っている人は、この世で罰を受けなくても、死んであの世に行けば、いやでも自分の悪
行を反省させられる、恐ろしい世界が待っています。この世界に逃げどくなどありません。
死んでも自分でした悪行は、自分で償わせられるのです。この世で好き勝手生きることが、
いかに愚かなことであるかを知ってください。
天国へいくのも地獄へいくのも、この世の心と行い次第である、ということを知るべきでしょう。



by gtskokoro | 2009-07-20 16:33
釈尊の慈悲と予言
シャリー・プトラーが亡くなると、弟のチェンダは遺骨の一部を持って、釈尊がいられる竹
林精舎に帰りました。釈尊は、その遺骨を手にして比丘達に説法をされます。
「比丘達よ、この遺骨は数日前まで汝らのために法を説いた、シャリー・プトラーの遺骨で
ある。彼は、如来と同じように法を述べて多くの人を導いた。彼の智慧は大きく深く、如来を
別にして世に比べるものはなかった。
彼は深く神理を知り、小欲にして閑静を好み、常に勇猛の心を持ち怯弱の心はなかった。
彼はまた争いを好まず、悪を避け常に禅定を修めて智慧を得た。彼の行くところは常に祥
福に満たされた。それは彼がよく邪法、邪教を降伏せしめて、正法を与えたからである。
汝ら比丘達よ、今一度この賢なるわが児の遺骨をみよ」
最愛の弟子であったシャリー・プトラーの遺骨を手にされ、法を説かれた釈尊のお気持ち
は、いかばかりであったでしょう。

それからまもなくして釈尊は、約五百人の比丘達を率いてナーランダに行かれ、シャリー・
プトラーが火葬された跡に立って黙然としていられました。釈尊はシャリー・プトラーのこと
を一人思い出していられたのです。出家して四十数年、そのほとんどを釈尊はシャリー・プ
トラーとともにいられました。遊行にでる時も、釈尊はシャリー・プトラーのグループと行動
をともにし、精舎で説法をされる時も、シャリー・プトラーは常に釈尊の側に控え、晩年の釈
尊は体の疲れがひどい時など「背中が痛くて横になりたい、今日の説法はシャリー・プトラ
ーにやってもらいなさい」と、度々説法をシャリー・プトラーに任せられました。
「シャリー・プトラーが生きているときは楽しかった」
シャリー・プトラーが亡くなった後、釈尊はよくこのような話を周りの弟子達にされました。
自分も涅槃に入る日が近いことを知っていられた釈尊は、シャリー・プトラーに習い、生ま
れ故郷のカピラに帰って死のうと決心されます。

釈尊は弟子のアナンを連れ、生まれ故郷であるカピラに向かって旅立ちます。
周りには多くの比丘、比丘達が従います。すべての弟子達は、これが釈尊との今生の別れ
になることを知っていました。
多くの弟子を連れて旅を続ける釈尊が、クシナガラの近くの町まで来たときに、その町に住
む鍛冶屋のチュンダが、釈尊のご一行に布施したいと申し出ます。そうしてチュンダは茸の
油いためを釈尊にだされ、それを釈尊は食されました。
その後、旅を続けた釈尊はクシナガラまで来ると、はげしい腹痛に襲われ、下痢をして血便
をされます。そして休みながらカクッター川のほとりまでこられ、そこで横になられます。ア
ナンは釈尊が水がほしいと言われたので、川に水を汲みに行きますが、その川は今しがた
五百台の商人の幌馬車隊が、通ったばかりで水が濁っていました。
それでアナンが、水が濁っていて汲めませんと釈尊に言うと、釈尊はもう一度行けば水は
澄んでいると言われるので、もう一度アナンが水を汲みに行くと、川の水はきれいに澄んで
いました。
釈尊は川の水を飲みながらアナンに「チュンダのところに行き、ブッダが悟りを開くときと涅
槃に入るときに、供養した者は天上界にいける、と伝えよ」と命じます。

なぜ釈尊は、こう言われたのでしょう。
それはチュンダを気遣ったからです。もしこのまま釈尊が亡くなれば、チュンダは多くの人に
責められたでしょう。おまえが、あのような油くどい物を釈尊にだされたから、釈尊は亡くなら
れたんだ、と、そう言われることがないよう、釈尊は心を砕かれアナンに、そう命じたのです。
また、こういうことを言う人もいました。
「八十歳にもなり胃腸も弱っているのに、うまいからといって油いためなどのくどい物を、自
分の腹の具合も分からず食べるてるようではだめだ」
こういうことを言う人は釈尊の慈悲の心を、まるで分かっていないのです。
釈尊はチュンダの真心をいただいたのです。チュンダが心をこめてだしてくれた茸の油いた
めを食べ、それで腹を壊して自分が死ぬことになっても、それは自分の死期が来ていたの
であり、決してチュンダの茸のせいではない、釈尊は物だけ肉体だけを見て食べられたので
はなく、チュンダの真心を食されたのです。チュンダは身分の低い者でした。それで自分の
体だけを思いチュンダの布施を断れば、チュンダはどう思ったでしょう。如来の慈悲の心とは
自分の体のことなど二の次にして相手の心を思うのです。釈尊の慈悲の心とは、そのように
広く深いものでした。

釈尊は、いよいよ自分の死期が迫っていることを悟られ、苦しい呼吸の中で最後の説法をさ
れます。周りにはアナンをはじめマンチュリヤ、カッチャナー、ウパリ、スブティー、マイトレイ
ヤーなどの高弟が控えます。
「私の説いた法は、そなた達の心に永遠に残るだろう。この法を、迷える衆生の心にしっかり
と教え、救済しなくてはならない。それが比丘、比丘尼の道である。私の肉体は滅びても心
は常にそなた達のそばにいるのだ。生あるものは必ず滅する、そのことを悲しんではならな
い。正道を多くの衆生に説き、苦しみから解脱させることが、大切なことである。それが私
に対しての報恩ともなるのだ。やがて私の法はマンデヤ、デイシャ(中国)に伝わり、ジャブ
ドウバーのケントマティーに伝わるだろう。私はその時、多くの弟子達と共にまた生まれ変わ
って、この道を説こう」

釈尊は、こう最後の説法をされ、涅槃へと旅立たれます。釈尊の教えである仏教は、釈尊の
予言通りインドから中国に渡り、そうして日本に伝わります。
釈尊は最後に、また生まれ変わってこの道を説くと予言されたのに、涅槃に入った釈尊は生
まれられることはないと、現在は言われています。
しかし、釈尊はジャブドウバーに生まれ変わって法を説く、と予言しておりました。それを伝え
たのがマイトレイヤー(弥勒菩薩)で、それをもとに弥勒菩薩下生経というお経までつくられる
ことになりました。現在の弥勒菩薩下生経の中には、釈尊がジャブドウバーに生まれ変わる
とは書かれてありませんが、仏教学者の間では、ジャブドウバーとは南インドのことである、
という意見が多いようです。

北インドにでられた釈尊が、今度は南インドにでられるということは考えられないこともありま
せんが、実際は違います。
ジャブドウバーとは、南インドのことではなく日本のことであったのです。




by gtskokoro | 2009-07-17 16:57
シャリー・プトラー⑥
シャリー・プトラーが釈尊の弟子となって、数十年の月日が流れました。釈尊の右腕とい
われ、釈迦教団筆頭の弟子として釈尊にもっとも信頼され、多くの人に慕われたシャリー
・プトラーも、やがて死を迎えなければならない時がきました。

釈尊はパタリープトラ(現在のパトナ)からガンジス河を渡り、べッサリーに行かれそこに
あるベルツー村で雨期を過ごされました。このとき釈尊は、いよいよ涅槃が近いことを周り
の者達に告げられ、重い病気になります。暫くして元気になられた釈尊は祇園精舎にい
かれ、それからラジャグリハの竹林精舎に帰ってこられました。
シャリー・プトラーは、釈尊の入滅の近いことを天上界から教えられていました。
シャリー・プトラーが、自分に死ぬ時が近づいたのを感じたのは、釈尊が竹林精舎に帰っ
て来られたその時でした。そうして母のことを思います。
「老いたる母に私は十分親孝行してこなかった。最後に親孝行して自分が生まれた、その
部屋で死にたい」
このときシャリー・プトラーの母は、元気に故郷にいました。

シャリー・プトラーは、静かに釈尊の下にまいります。
「ブッダ、私の死ぬ時がいよいよ来たようです。どうぞ、私がナーランダに帰ることをおゆる
し下さい」
しかし、釈尊は何も言葉を発せられませんでした。このとき釈尊はシャリー・プトラーの心
をすべて知っていられました。知っていながら、それでも釈尊は何も話されませんでした。
それは釈迦教団創立以来、一番自分に尽くしてくれたシャリー・プトラーと、ここで今生の
別れをすることが忍びなかったからです。
シャリー・プトラーは三度申し上げると、やおら釈尊は口をひらかれます。
「シャリー・プトラーよ、御身はどうしてそんなに死を急ぐのか。御身はなぜここにとどまる
ことを望まないのか」
「ブッダよ、この頃、天上界の方々が私の前に現れて『釈尊は齢八十に向かわせられる、さ
れば涅槃に入る日も久しくはない』と教えられました。私はブッダが涅槃に入られるのを見
るに堪えません。そのうえ私は、いつかブッダから過去の諸仏の最高上座の弟子は、必ず
仏に先だって涅槃に入ると聞いたことがあります。ブッダよ、どうぞ、わが入涅槃をお許し下
さい」

釈尊はジッとシャリー・プトラーの言葉を聞いていられました。釈尊は自分の入滅を悟って
いながらも、最愛の弟子の死を悲しまれます。
「シャリー・プトラーよ、御身は先にいくのか。御身はよく入涅槃の時を知った、どこで死ぬ
つもりであるのか」
「まだ故郷に母が健在であります。その母のもとに帰り、私が生まれましたその部屋でと思
っております」
それを聞いた釈尊は、最後にシャリー・プトラーに言われた。
「それならそうするがよい。御身はわが弟子の中で並びなき者であった。比丘、比丘尼達の
ために最後の説法をするがよい」
多くの比丘、比丘尼達が集められシャリー・プトラーの最後の説法を聞きます。
「汝ら思うがよい。如来が世に出たまうこと稀である。信を得て如来の法を学ぶこともまた至
難である。この世は無常である。汝ら一心に道を修めて苦境をのがれよ」
シャリー・プトラーは話終わると、竹林精舎に帰り身の周りを整理して、鉢を持ってシャリー・
プトラーの一番下の弟、チェンダを従え竹林精舎をでます。多くの比丘、比丘尼達が途中ま
で従いました。

夕暮れ時にナーランダに着いたシャリー・プトラーは、自分の家に帰り生まれた部屋に入り
ます。仏典にはシャリー・プトラーのこの世の最後にあたり、母のため母が釈尊に帰依され
るために、ナーランダに帰ったと書かれてありますがそうではありません。
母シャリーは、自分の子供が釈尊の右腕として活躍していることを知っていました。また、
釈尊は度々ナーランダでシャリー・プトラーの求めに応じて説法もされ、シャリーも十分に
釈尊の教えも分かっていたのですが、夫はナーランダの村長でバラモンの指導者でもあり、
ナーランダの村民の中には釈尊の教えに従わない者もいました。ナーランダ村をまとめて
いくためには、シャリー・プトラーの母といえども、すべてを挙げて釈尊に帰依するというわ
けにはいかなかったのです。
シャリーは大きく成長した、わが子の死を、みとらなくてはならない立場に立たされたことを
悲しみます。そうして偉大なわが子を育てさせていただいたことを神に感謝します。
シャリー・プトラーの死を惜しむ人達が集まり、そんな中シャリー・プトラーは大勢の人々に
惜しまれつつ、この世を去ります。遺骸は火葬され七日間供養が続きました。
シャリー・プトラーを慕う人々が釈尊の許可を得て、シャリー・プトラーの火葬された後に、
壮麗な塔を建てました。

それから二百年後、アショカ王があまねく仏蹟を巡り、シャリー・プトラーの塔にも供養して、
次のような偈(げ)をもってシャリー・プトラー(サリープッタ)の徳を称えられました。


            我、サリープッタを礼し、
            もろもろの恐怖より解脱す
            その名、世にあまねく
            智慧、この世に等しきもの
            あることなし 






by gtskokoro | 2009-07-16 15:33
シャリー・プトラー⑤
祇園精舎が布施された時のことです。この祇園精舎を建てるにあたり、設計者に選ばれ
たのがシャリー・プトラーでした。
だがここで問題が起きます。釈迦教団が精舎を建てるということで、バラモン教の人々が
大反対を起こしたのです。この頃はまだ釈尊の名声も、祇園精舎を建てることになったコ
ーサラ国までは知られていませんでした。バラモンの人達にしてみれば、どこの馬の骨と
も分からない連中が、大きな精舎を建てるというのですから面白いはずがありません。

何度も話し合ったのですが、結局話がつかず論議で決着をつけることになりました。
当時のバラモン教徒は論議をこととしていました。この論議に負け自分の家も名声も失っ
てしまう者もいました。この頃のインドの宗教はバラモン教のみであり、法を説くというより
も、ほとんどは祈祷呪術宗教になっており、その方法によっていくつもの分派に分かれて
いました。当時、バラモンの遊行者同士の議論は珍しいことではなかったのですが、新た
に興った仏教と在来のバラモン教との公然とした論議は初めてのことであり、多くの人が
好奇心を持って集まりました。

論議は七日後と決まり、シャリー・プトラーは論議の日まで、釈尊から聞いた法を繰り返し
思い出し、瞑想して仏法により多くの人が救われていくことを念じていました。シャリー・プ
トラーは、相手の言葉や態度によって、心が動かされるということはまったくありませんで
した。相手が感情的に興奮すればするほど、ますます冷静に心を澄ませられる人でした。

いよいよ対決の日がきました。バラモンの代表者は「赤目バラモン」と呼ばれる人物です。
人と論議しているとその目の周りが赤くなり、底光りするその異様な眼に睨まれると、それ
だけで相手は委縮してビビってしまう、そんなところから「赤目バラモン」と呼ばれていまし
た。
当時、富と名声をほしいままにしていたバラモン教が、できたばかりの教団に負けるわけ
にはいきません。このような重大な論議の代表者に選ばれた赤目バラモンは、コーサラ
国きっての大物であり、過去何十人ものバラモンの修行者達を論破してきた猛者でした。
シャリー・プトラーも優れた人物として名は知られていたのですが、大バラモンとできたば
かりの宗教の一弟子とでは、余りにも格が違いすぎて相手にならないと思われていまし
た。しかし、勝負は一瞬で決まります。シャリー・プトラーと赤目バラモンが対峙し、お互い
眼と眼を合わせた瞬間、赤目バラモンはシャリー・プトラーの威光に打たれ、思わず眼を
伏せ、ついには頭を上げることができなくなってしまったのです。

丁度それは剣の達人同士が真剣勝負をするときに、お互いの眼を見ただけで相手の力量
が分かり、勝敗が決してしまうのと同じで、まことにあっけない勝負でした。ただ集まった群
衆が分かることといえば、シャリー・プトラーの体が大きく宇宙一杯に広がったように見える
のに対し、赤目バラモンの体は、それまでは大きく見えていたのに、小さく小さく見えてくる
ことでした。
群衆はひたすらシャリー・プトラーの威徳に感じ入り、このことによりシャリー・プトラーと
釈迦教団の名声はコーサラ国全土に広がり、この地に祇園精舎がつくられることになり、
仏教は北インド一帯に広がっていくことになりました。

また釈尊の弟子であり従兄弟でもあったダイバー・ダッタが、釈尊が自分を釈迦教団の後
継者に指名してくれなかったことに腹を立て、釈迦教団を割って独立の教団をつくろうとした
時のことです。
ダイバー・ダッタは、釈迦教団の新参の修行僧五百人をそそのかして、連れ出します。する
と、その一番最後にシャリー・プトラーがついていきます。ダイバー・ダッタは釈尊の弟子の
中で、筆頭であったシャリー・プトラーがついてきたということでいい気になり、シャリー・プト
ラーに説法をさせます。するとシャリー・プトラーはとうとうとダイバー・ダッタのことを褒め、
あまりに褒められるのでダイバー・ダッタは気持ち良くなり、眠くなって眠ってしまいます。
そのすきにシャリー・プトラーは五百人の弟子達を説得し、全員を連れ帰ったのでした。
シャリー・プトラーは常に釈尊とともにいて、釈尊の気持ちを一番理解し行動できる人物で
した。

ある人が釈尊に「ブッダが亡くなったとしたら誰が後継者となりますか」と聞くと、釈尊は「そ
れはシャリー・プトラーである」と答えられました。
シャリー・プトラーは、釈尊の教えをより分かりやすく多くの人に語りました。シャリー・プト
ラーがまとめた釈尊の教説は、三百~四百年伝えられ続けて、シャリー・プトラーは般若
心経、法華経、阿弥陀経など、ほとんどのお経に「舎利子」「舎利弗」の名で、書き記される
ようになり、シャリー・プトラーの存在は、後に仏教を知る人々に多大な功績を残したのであ
ります。
by gtskokoro | 2009-07-15 15:56
シャリー・プトラー④
釈尊の正法流布が積極的になり広がっていくと、釈迦教団に入門する入門者も次第に増
えていきました。ある時ウパテッサとコリータが釈尊に呼ばれます。
「同姓同名が多く、お前達自身心を新たにする意味もあって、このさい改名したらいいと
思うがどうか」と聞かれます。
ウパテッサもコリータも、前々から釈尊の弟子になることで心機一転し、名も変えて頑張っ
ていきたいと思っていたところだったので、ブッダにお任せしますということになりました。
すると釈尊は「ウパテッサよ、そなたの母はバラモンの妻として、よく衆生を供養し、よく夫
に仕え、よく子供を育てた。そなたの母はラジャグリハの町でも知られている賢母である。
その母の名をもらって、これからはシャリー・プトラーと呼んではどうか」と言われました。
母シャリーの族の者という意味です。
ウパテッサは釈尊が、自分の母のことまで知っていることに驚きましたが、ウパテッサに
異存はなく「はい、母のように慈愛にとんだお方の名前をいただき、母に負けないよう立派
な修行者になります。ブッダありがとうございます」とお礼を言って、釈尊の偉大さをまた
あらためて知るのでした。
一方コリータもモンガラナーと改名することになりました。

釈迦教団が発達していくと、釈尊にかわって大弟子達が説法をしました。しかし、その説法
はその大弟子達が、釈尊から受け取った範囲だけのものでありましたが、シャリー・プトラ
ーは釈尊の教えをそのままよく分かっていたので、釈尊の教えのすべてをより分かりやす
く、多くの衆生に説いたのです。
ある時、シャリー・プトラーの教えを聞いた比丘(男の修行者を比丘『ぴく』女の修行者を比
丘尼『ぴくに』といいます)が、釈尊のところへかけ込んで訴えました。
「シャリー・プトラーは、ブッダから聞いたこともない話をしています。けしからんことです」
釈尊は答えられます。
「そうではない。シャリー・プトラーは、私と同じ法界に自由に出入りできるのであるから、
シャリー・プトラーの言っていることは正しいのである」
仏典には次のように書き遺されています。

『釈尊は、シャリー・プトラーの智慧を驚嘆せられて、
「シャリー・プトラーは、聡慧、速慧、捷慧、利慧、広慧、深慧、出要慧、明達慧、弁才慧を
具えている。彼は実智を成就している。
それゆえに、われ略して四諦の理を説けば、シャリー・プトラーは広くこれを他のために説
きあらわす」また、
「智慧、きわまりなく、もろもろの疑いを決了するものはシャリー・プトラーである」
と申された』

シャリー・プトラーの智慧は、聡明で頭の回転が早く、いうことは秀でており、善悪利害の
判断が正しく、広く深くどこまで深いかその深さが分からない、そうして、必要に応じて相手
が聞きたいと思っていることを話し、神理に到達しているから矛盾がなく、話すことが次か
ら次へとでてきて話が途切れるということがない。因縁の法を簡単に略して説いても、シャ
リー・プトラーはすべてのことが分かっているため、それはどういうことであるのか、いろい
ろな体験を交えて日常生活に即した広い話をするから、聞いた人は皆ためになる。シャリー
・プトラーの智慧は際限がなく、どんな疑問でもシャリー・プトラーに聞くと、納得できるので
ある、と釈尊は言われました。

釈尊在世当時にも、統一された教団というものはありませんでした。それぞれの弟子達を
中心にした大小の支部(数人から数百人)があり、それぞれ独立して修行していました。
夏安居(げあんご)といって、毎年雨期になると弟子達は釈尊の下に集まり、新しく説法を
聞いて伝道先での質問、疑問をお互いに勉強しあいました。
釈尊はシャリー・プトラーのグループと行動を共にしていられました。ラジャグリハの東北に
霊鷲山(りょうじゅせん)がありますが、この一帯をグリドラクターといい、昔から死体の捨て
場所になっていて人々に恐れられ気味悪がられている場所でした。
日本では昔から東北は鬼門と言われていますが、その語源はここからきています。
シャリー・プトラーのグループは、この霊鷲山の洞窟で生活をしていました。霊鷲山にはた
くさんの洞窟があり、その中の一つで釈尊とシャリー・プトラーはともに寝起きをして、釈尊
は寝起きをしている洞窟の上で、瞑想をしたり人々を集めて説法をしたりしていたのです。

釈尊がなぜそのような場所を、わざわざ住処にしたかと言えば、死とは恐れるものではなく
神の定めなのである、人が死に肉体は腐ってウジがわいても、それは神の定めによって
そうなるのであり、その人の魂は神と一体であり仏と一体であり清らかなのである、という
ことを人々に知ってもらうため、敢えてそのような場所に住むことにされたのでした。

釈迦教団が大きくなるにつれ精舎が布施されることになります。竹林精舎、祇園精舎、鹿
母精舎、この精舎が布施された時も、シャリー・プトラーの活躍が伝えられています。







by gtskokoro | 2009-07-14 15:36
シャリー・プトラー③
ウパテッサとコリータは弟子達を連れ、釈尊のいる竹林精舎へと急ぎます。竹林精舎につ
いて二人が釈尊の前に進み出ると、釈尊は「あなたがウパテッサ、そちらがコリータですね。
よく訪ねて来られた。あなた方はいろいろ求められて来られた方ですね。師に巡り合えて
本当によかった」と労らわれます。
ウパテッサは質素な法衣と飾り気のない姿の中にも、どことなく威厳がある釈尊を一目見る
なり「ブッダー、私達をお弟子に加えてください。お導きをお願い致します」と、口走っていま
した。コリータも同じで釈尊を見た瞬間、遠い昔の師に、やっと巡り会えたような懐かしさに
おそわれ「ブッダー、お懐かしゅうございます」と叫び、泣き出してしまいました。初対面の者
がいきなり涙を流して懐かしがる、不思議な光景でした。しかし、ウパテッサもコリータも体
の中から揺れ動く、感激の鼓動をどうすることもできませんでした。

どうしてこういうことが起きるのでしょう?
釈尊のことを観自在菩薩とも言います。観自在とは人の現在・過去・未来やこの世界のす
べてを一瞬で見通せる力のことを言います。(観ること自在の菩薩=観自在菩薩)この観自
在の力をもたれた方は、身体から絶えず光を放っています。すると過去世で釈尊と縁の深
かった者は、この光によって心の奥に眠っている過去の記憶が表面意識に流れ出し、現在
の記憶を飛び越えて過去の記憶が甦ってきます。それでこのような現象が起きてくるので
すが、ウパテッサとコリータは特に釈尊との縁が深い方達でありました。

釈尊はウパテッサとコリータの現在のことはもちろん、過去世のこともすべて知っていられま
した。釈尊は竹林精舎にすべての弟子を集められ、次のように話されます。
「今から新しくブッダに帰依したサロモン(修行者)を紹介する。こちらのサロモンはウパテッサ
という者、その後ろに座している者はウパテッサの指導を受けている弟子達である。ウパテッ
サはやがて君達に法を説き、君達のよき指導者となるであろう。またウパテッサの隣に座し
ているサロモンはコリータといい、ウパテッサの小さい時からの修行仲間であり同士だ。ウパ
テッサ同様このコリータもやがて君達を導くだろう。この者達は今日からブッダに帰依し、法
に帰依し、教団に帰依したのである。諸君達もしっかり法を依りどころとして修行してほしい」
先輩が後輩を導くというのはどんな世界でもありますが、釈尊は今、帰依したばかりの新参
者二人が、古い弟子達を指導するようになると言います。釈尊の言葉を聞いて、早くから釈
尊に帰依した弟子達の間からざわめきが起きました。

今生だけを見ても、必ずしも先輩が後輩を生涯通じて導くとは限りません。年齢や先輩、後
輩にかかわらず魂の過去の遍歴によっては、先輩より後輩の方が魂の高い次元にあること
もあるのです。法の世界においては、魂の次元の高い者が指導者になることは当然であった
のですが、そのことが分からない多くの弟子達は、心に抵抗をつくり動揺する者も少なからず
いました。すべてを知っていられた釈尊はまた言われました。
「帰依したことの早い遅いによって、その者達の魂が偉大であるかどうか決めることはできな
い。そなた達はブッダの過去六仏のいずれかの縁によって、現世の弟子となったなのであ
る。しかし、ウパテッサもコリータもブッダの過去六仏の縁をことごとく体験した。ウパテッサも
コリータもブッダが前生で肉体を持ったとき、すでに菩薩としての悟りを得ていたのである。
今生だけの縁をもって、先輩、後輩と決めて不平不満をいだいてはならない」

釈尊はウパテッサとコリータを、過去六仏の縁をことごとくを体験したといわれました。釈尊は
過去六度この世に出世され、仏として法を説かれました。これは原始経典「テーラガータ」に
「過去六仏の踏みゆきし道をゴーダマ(釈尊)は行けり」と書かれてありますが、この六度この
世に出られて、法を説いていられる時すべてに一緒に出て釈尊に仕えたのが、ウパテッサと
コリータであり、この過去からの縁によりウパテッサとコリータは「釈尊常随の弟子」(しゃくそ
んじょうずいのでし)と呼ばれます。(釈尊は過去六度この世に出て法を説いたと言われてい
るのに、釈尊入滅後は、涅槃に入られた釈尊は、二度とこの世に出世されないと言われるよ
うになりました。ずいぶんおかしな話ですね)

最初は不平不満をもっていた古い弟子達も、釈尊の言葉を聞いて反省し、ウパテッサとコリー
タも、その過去世からの力を次第に発揮して、釈迦教団の中でグングン頭角を現していきま
す。ウパテッサの力をよく知っていられた釈尊は、次第に釈迦教団の統制をウパテッサに任さ
れるようになります。釈迦教団をウパテッサに任された釈尊は、法を説くことに専念されるよう
になり、釈尊が法を説くことに専念されると、釈尊の説かれる正法は急速に広がっていくこと
になるのです。





by gtskokoro | 2009-07-13 16:46
シャリー・プトラー②
ウパテッサには竹馬の友であり親友でもあった、コリータ(後のマハー・モンガラナー、大目
連)がいた。二人の出会いは次のようなことであった。

インド人はお祭りが好きで、日をきめて村々が集まり祭りの集会をしていました。ウパテッサ
の故郷でも、よくこのようなお祭りの集会が開かれ、皆楽しそうに踊り狂っていました。しかし
ウパテッサは、そのような祭りに参加することは破滅の道と教えられていたため、そんな祭
りには一切参加しませんでした。
しかし、わずか十六歳で天才の名を、ほしいままにしていたウパテッサといえども人の子で
す、他の十六、七歳の子らと同じように、祭りに参加して踊り狂ってみたいという、気持ちは
強く持っていました。その一方で、インド哲学の神髄に触れた理性は、それは破滅の道であ
る、ということを知ってその思いを否定しようとします。ウパテッサの青春は、その二つの思
いに揺れ動きます。楽しそうに踊り狂っている人がいる。自分もあんなに夢中になって、な
にもかも忘れて踊れたら、どんなに楽しいのであろうか、フッと気がつくと、いつしかウパテ
ッサもこの祭りの人となっていました。

踊り狂っている人達の真似をして、踊りの輪の中に入りふざけて踊ってみましたが、そうし
た途端ウパテッサの心はたちまち虚しくなり、激しい嫌悪感に襲われます。いたたまれなく
なったウパテッサは、踊り狂っている人の輪からはずれ、誰もいない森の中に入り、一本
の木の下に座りました。祭りの笑いさざめく声、太鼓や笛の音がかすかに聞こえてきます。

「人はいつしか死ぬのである。今、この山に集まって歌い踊っている人達も、あと百年もす
れば誰も生きている人はいない。あそこにいる人達は何のための人生なのか、死んだらど
こに行くのか、そんなことも考えないで、歌って踊って楽しんでいるが、それが人生にとっ
てどれほどの価値があるというのか。今はああして浮かれていても、この祭りが終われば
また人を憎んだり恨んだり愚痴ったりして、少しも進歩のない堕落の道を歩むのである。な
んと馬鹿な時間を過ごしていることか」

うかうか人の波にうかれて、祭りの輪の中に入ってしまったことが、悔やまれて仕方ありま
せんでした、もう二度とこんなことはしない、そう誓うウパテッサでありました。
我に返ったウパテッサが、後ろに人の気配を感じ振り返ってみると、自分とそう歳もかわら
ないと思われる青年が立っていました。名を聞くと「コリータ」だといい、ウパテッサが住む村
の隣の村に住んでいるとのことでした。
このコリータもウパテッサほど名は知られていませんでしたが、家柄もよく優れた人物でし
た。二人はその場に腰をおろし語り合ってみると、まったく同じ考えをもっていました。話して
いるうちにウパテッサとコリータは、なにか昔からの友であったような気がしてきて、その場
で親友となり一緒に学んでいくことを誓います。この誓いは生涯破られることは、ありませ
んでした。後に釈尊の弟子となった二人は、釈尊の二大弟子として一生をともに釈尊の下
で修行して行くことになったのです。

ウパテッサとコリータは同じアサンジャーの弟子でしたが、師の教えに満足することなく人
が本当に救われるのにはどうしたらいいのか、それを教えてくださる方を探し求め、もしどち
らかが、そのような人を見つけたならば、必ず連絡しあおうと約束していました。
ある時ウパテッサが、ラジャグリハの郊外で遊行中休憩をしていると、目の前を眼のきれい
な他のバラモンの修行者とはまったく雰囲気の違う、若い修行者が通りました。ウパテッサ
は、この方はもしかして仏陀ではないのかと思い、声をかけますが、その人は仏陀の弟子の
一人のアサジという人でありました。そのアサジから仏陀が出世されているということを聞き、
大急ぎでコリータのもとに走ります。

ウパテッサはコリータに仏陀が出世されていることを話し、会いに行くことを告げます。しかし、
コリータは「その人は本当の仏陀なのか?自称仏陀という人はたくさんいるからな」と、疑い
ます。しかし、弟子の雰囲気からして他の修行者とは違う、とウパテッサが必死で話すとコリ
ータも信じ、自分達の弟子達を連れて、仏陀に会いに行くことになります。
ウパテッサとコリータは釈尊と衝撃的な出会いを、これからすることになります。そして、この
二人が釈迦教団に入ることにより、釈迦教団も大きく運命がかわっていくことになったのです。




by gtskokoro | 2009-07-10 15:39
シャリー・プトラー①
シャリー・プトラー(サリープッタ)は、お経や仏典の中に舎利弗(しゃりほつ・シャリーの族
の者)、舎利子(しゃりし・シャリーの子)の名で、よく出てくる人物です。
インドで釈尊が正法を説いていられた当時、釈尊の右腕といわれていたのが、このシャリ
ー・プトラーでありますが、現在ではシャリー・プトラーよりも文殊や普賢、あるいは弥勒
菩薩という人の方が有名で、釈尊筆頭の弟子であったシャリー・プトラーは、あまり知ら
れていません。
しかし、釈尊が法を説いていられた時、釈尊が一番信頼し、後継者とも思っていたのが、
シャリー・プトラーであり、それは当時の釈尊の弟子達や他の人々も認めていました。

シャリー・プトラーは、中インドにあるマガタ国の首都、ラジャグリハ(王舎城・現在はラジ
ギールと呼ばれています)から西北に十五キロくらいのところにある、ナーランダという村
で生まれました。
父のテッサは非常に優れた高邁な見識をもち、母のシャリーもバラモンの教義に詳しく、
優れた資質をもたれた人でした。
テッサとシャリーは平和な生活を続けていましたが、ある晩シャリーは不思議な夢を見ま
す。その夢とは、鎧兜に身を固めた見たこともない異人が、手に金剛杵(こんごうしょ)を
持って、たくさんの高山や霊山を次々に踏破していきます。そうしてその中の一番高い霊
峰に立ったとみると、夢から目が覚めました。

この夢をシャリーは、夫のテッサにつぶさに語りました。妙に心に残る夢で、不思議な夢を
見るものと奇異に感じていたシャリーは、それから間もなくして妊娠します。すると、にわか
に心が広く澄み渡るように感じて、いかなる問題に対しても、思ったこともない言葉が次々
とでてきて、たちまち答えてしまいました。高邁で優れた見識を持つ夫のテッサでさえ舌を
巻くほどでした。そうして生まれた男の子を、シャリーはウパテッサと名づけます。このウ
パテッサが後年のシャリー・プトラーです。

ウパテッサの母のシャリーは、ウパテッサを受胎する前に見せられた不思議な夢によって、
ウパテッサを育てることに、大きな使命感を感じていました。特に受胎してから、シャリー自
身が大きく成長し変化したこともあって、この子は普通の子ではないと、特別心を砕いて育
てました。
母の思い通りウパテッサのすきとおった頭脳、素晴らしい才能は大人さえも舌を巻くほどで
した。博識な父と聡明怜悧な母の薫陶を受け、八歳から師につきインドの古典ヴェーダ、ウ
パニシャードを学び、膨大なヴェーダ聖典を暗誦し、各派の宗教哲学を研究し、十六歳にな
ると学識は師を超え、その名声は近隣に鳴り響きました。
ウパテッサは容貌、体格ともに優れ鼻も高く額は聡明さをあらわし、家も富み栄えていまし
た。父テッサ、母シャリーの名とともに、天才ウパテッサの名も、誰も知らない者はいません
でした。

この当時インドの宗教は沈滞して、ヴェーダの真意は失われ、祭祀をつかさどるバラモンだ
けが羽振りを効かせ、儀式のみが盛んで、その祭典の儀式には膨大な費用がかかり、本当
の人の救いである心と霊の救いを説く人はいませんでした。
ただ、その中にあって、それぞれ自分の信じたことを説く修行者がありました。それが六師外
道(ろくしげどう)と呼ばれた人達です。
ウパテッサは、その六師外道の一人である、アサンジャ(サンジャペーラチプッタ)の弟子に
なります。このアサンジャの教えは「ある」と思えばある「ない」と思えばない、という懐疑論で
す。たとえば「来世はあるか」とアサンジャに質問すると、「あなたはどう思うか」とアサンジャ
が言います。「私はあると思う」という人に対しては「あなたがあると思えばある」と答え、「な
い」という人には「あなたがないと思えばないのである」と答えます。
アサンジャは、このように曖昧な確定的でない返答ばかりしていたので「鰻のようにぬるぬる
していて捕らえ難い議論」と呼ばれます。

ウパテッサはアサンジャに弟子入りするまで、十分な素養と英才を身につけていたため、わ
ずか三日でアサンジャの教えが、みな分かってしまいます。そのためアサンジャの弟子二
百五十人の講師となり、バラモン教の教えを中心に、自分の得たものを伝えていました。
しかし、心の中にはいつも疑問があり、その疑問はバラモンの経典や他の外道達の教えを
学んでいても、晴れるものではありませんでした。
ウパテッサは自分も救われ、人も救われていく本当の道を探し続けていました。必ずどこか
に人が本当に救われる真の教えを説く、悟られた仏陀がいるはずであると、たえず師を求
め遊行していました。
この頃インドでは、近く仏陀が出世されるという予言が、遠くギリシャの方から伝わっていま
した。







by gtskokoro | 2009-07-09 15:40
あるプロ野球選手との出来事②
その年、その投手のいたチームはよい成績を上げ、私も長年そのチームのファンだった
ので嬉しかったのですが、あれほどの投球を見せてくれた、その投手に何をお返ししよう
かとズッーと考えていました。何か贈り物でもしようかな、とも考えましたが、なにせ相手
は年俸数億の選手です。私のような貧乏人が何か買って渡したとしても、さして嬉しくも
ないでしょう。それより何かもっとインパクトのあるものはないのか考えました。

そうこうしているうちに、翌年のシーズンが開幕し、その投手も開幕で投げたのですが、昨
年の疲れがあるのか、あまり調子がよくありませんでした。開幕前のオープン戦に投げた
時も連打され、あまり調子がよさそうには見えませんでした。
その調子の悪そうな(と勝手に私が思いこんだのですが)、その投手をみてピンときまし
た。
「よし、昨年のあのピッチングのお返しに、この投手の調子をもっと上げてやろう」
今考えれば、日本一の投手の調子を上げようというのですから、ものすごい発想です。
しかし、やれる自信はありました。なにせ仏陀の法を知っているのですから。そして、その
投手が次に投げる機会を待っていました。

その投手が投げそうな日を見計らい、三塁側内野席の同じ場所に座りました。予想通り今
日の先発は、その投手です。
最初の先発のマウンドに上がる前に、その投手は私のいることに気付き、こちらを見ていま
した。私は内心「よしよし」と思いながら、その試合を見ていました。
一回、二回は、さほどのピンチらしいピンチもなく試合が進んでいたのですが、三回にヒット
と味方野手がエラーして、ノーアウト一、二塁というピンチになりました。私は内心「チャン
ス」と思い、あることを繰り返ししゃべって(口パクで)いました。
その投手はランナーがいますので、セットポジションで構え、いやでもこちら(三塁側内野
席)に顔と体を向けなければなりません。その投手がランナーを見て、セットポジションで
構えていたとき、フッと私の顔を見ました。すると私は繰り返しあることを言っています。
その選手は、私が何かしゃべっているのに気づいた様子で、ジッとこちらの口元を凝視し
ていました。

すると急に顔色がかわり、マウンドから足を離し構えを解きます。あきらかに私の言ったこと
を理解したようでした。しかし、仮にも日本一のピッチャーといわれた投手です。プライドも高
いでしょうし、頑固なところもあると聞いています。私がしゃべったことを、この投手がやって
くれるかどうかは、分かりませんでした。
男は、一念岩をも通す、という頑固な部分もないと、大きな仕事もできません。だから、その
ような頑固な部分があってもよいと思いますが、仏陀の法の前では、そんなプライドも頑固
さも無用の長物でしかなく、そういう心をすべて捨てて素直に法に従うならば、そこに奇跡が
起きるのです。

少し、その投手は考えていましたが、おもむろにグラブからボールを出すと、そのボールを
ジッと見つめていました。どうやら、私の言ったことをしてくれたようです。私は一人でヨシヨ
シとうなずきながら、そのピンチを見守っていました。

その後不思議なことが起きます。ノーアウト一、二塁で次打者が送りバントをしたのですが、
それが、そのピッチャーの目の前に転がり、二塁ランナーが三塁ホースアウト、次打者はレ
フトフライ(もしランナーが三塁に進んでいたら、タッチアップで点が入っていたかもしれま
せん)、問題は次の打者です。
ツーアウト一、二塁でバッターのカウントがツースリーまでいきました。次の球がボールな
らフォアボールでツーアウト満塁(次打者は三番か四番の選手だったと思います)で大ピン
チとなり、ストライクなら三振でチェンジということになります。次の一球がストライクかボー
ルかでずいぶん結果が違ってきます。
その投手が、最後のボールを投げました。私もそのボールを三塁側内野席からドキドキし
ながら見ていたのですが、あきらかに低かったのです。普通、内野席からボールを見てい
てもコースがよくわからないので、ストライクかボールかはっきりしません。ところが、その
ボールは内野席から見ていても分かるくらい低いボールだったのです。
しかし「あっ、ボールだ」と私が思った瞬間、審判がストライクのコールをしたのです。
「えっ」と私は思いました。「今のボール完全に低くないか」と私が思っていると、相手チーム
の監督が大きなゼスチャーをしながら、カンカンででてきます。コーチや選手もでてきて大
騒ぎになりましたが、ストライクの判定がボールにくつがえるはずもなく、相手チームの監督
や選手達はシブシブ引き上げました。このストライクの判定でチェンジとなり、その投手はピ
ンチを無失点で切り抜けたのです。不思議な判定でした、その時に限って審判がボールを
ストライクとミスジャッジしたのです。(誤解がないように言っておきますが、私にはそう見え
たというだけで、実際はストライクだったのでしょう。しかし、きわどいボールだったのはたし
かなようで、だから相手チームの監督やらコーチやらがでてきて大騒ぎになったのです)
法を知ると、こういう不思議なことが起きるのです。

こういう幸運を、たまたまとか偶然そうなったとか思っていると、よい運はめぐってこなくなりま
す。この世に偶然などありません。よい結果がでたのならよい原因をつくったから、よい結果
がでたのであり、悪い結果がでたのなら悪い原因をつくったから、悪い結果がでるのです。

この投手は、そのことがよく分かっていたようで、この試合から、この投手は二十何イニング
か無失点を続け、このシーズン、ダントツの防御率(規定投球回数に少し足らなかったので
タイトルはとれませんでしたが)をほこり、最後まで調子が落ちなかったのです。
私は、この投手に、たった一言アドバイスを送っただけでした。たった一言でも仏陀の法を知
るならば、それなりによい結果がでるのです。もちろん、この投手に実力があったのは事実
です。しかし、その実力だけで、よい結果がでるとは限りません。よい原因(仏陀の法)をつく
ったから、よい結果がでたのです。
この投手は現在は海外のチームで投げていますが、頑張ってほしいといつも思っています。

このように仏陀の法を知ると、不思議な結果を得て、不思議な現象がでるということを知って
ください。ただし、中途半端に仏陀の法を知り、そのままでいると、おかしな結果がでること
があります。そのような人は、もっとしっかり法を知れという警告ですので、ちゃんと勉強しな
いと大変なことになります。
いずれにしても一人でも多くの人が、仏陀の法を知り、この投手のような不思議な現象を
体験していただきたいと思っています。




by gtskokoro | 2009-07-07 17:09