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最後に……。
最後に自分の師のことを書いて、このブログも終わりにしたいと思います。

私の師であった園頭広周先生は、高橋信次先生の後継者(色々異論のある方は多いでし
ょうが)として、数十年の間、法を説き続けてこられました。そして亡くなられる三年前に倒
れられ、寝たきりになられてしまいました。
寝たきりになられたとたん、先生の弟子の中からも先生の悪口を言いたてる者が、でてき
たのは誠に遺憾なことでした。園頭先生は多くの病人を癒され、多くの奇跡を起こされまし
た。その奇跡を見て、助けられた人も大勢いたのです。そのような人達が、先生の悪口を
平気で言っているのです。この人達の心の軽さにあきれました。そればかりではなく、先生
のお体が不自由になられたとたん、先生を自分の友達のように扱い、ずうずうしい態度をと
りだした弟子もいました。師と弟子との間は、どこまでいっても師は師であり弟子は弟子で
す。弟子は師への一線を越えてはならないのです。

園頭先生は講演をされるときなど、必ず高橋先生のお写真に合掌されておりました。高橋
先生のお話をされるときでも、常に高橋先生を立てていられました。高橋先生は亡くなられ
ていたとはいえ、園頭先生は高橋先生との師弟の関係は常にもっていられ、尊敬の念を
忘れたことはありませんでした。そんな師弟関係を目の前に見ていながら、師のお体が不
自由になられただけで、友達のような態度を平気で師に向かってとる弟子達がいたのです。
師の悪口を平気で言っている弟子や、友達のように接した弟子達は、師の体が健康であっ
たなら、そのような悪口を言ったり、友達のような態度をとれたのでしょうか?そんな態度は
絶対取らなかったでしょう、なぜならそのような人達は師が健康な時は、師を神様のように
拝み、奉っていたからです。

このような人達が急に態度を変えられるのは、師の体しか見ていないからです。師の心は
まったくかわっていないのに、体しか見ていないからこのような態度を、師に向かって平気
でとれるのです。この人達は師のもとで何を勉強していたのでしょう。あれほど心が大事だ
と師が説かれていたというのに……。

師が寝たきりになられたため、多くの人が師を批判しました。法を説く人があんな寝たきりに
なったんではだめだ、だの、罰があたっただのと、しかし、こういう人は師の苦労を何も分か
っていない人達にすぎません。師はもう八十になろうかというご高齢でした。その高齢な方
が、もう何十年も重いカバンをもって全国を駆け回っていられたのです。そればかりではな
く家に帰れば本の執筆はある、悩みの電話はかかってくる、手紙の整理と返事は書く、と
ゆっくり家で休む暇もなく、また講演に出かけて行かれるのです。こんな生活を続けていら
れて、体を壊さない方がどうかしている、現実に師は病院の先生に、今日の講演は休みな
さい、と何度も止められていたのです、病院で点滴を受けられて、そのまま講演会場にいか
れたことも、何度もあったのです。師のこんな苦労も知らず、寝たきりの部分だけ見て、あ
れではだめだという人など、師のことを何も分かっていない人達なのです。
高橋先生もそうでした、自分の体は二の次にして、全国を駆け回りお体を酷使した結果、
過度の疲労からくる膵臓と肝臓の悪化で亡くなられました。如来と言われる方々は皆、
自分のことを二の次にして人のことを考えます、そのため体を壊され、最後は亡くなられ
るのです。自分の命を人々に捧げられるのです。

私は、その如来のことを少しでも知ってもらおうと、このブログを書いてきました。このブロ
グを読まれた方で、如来の法というものに興味をもたれた方は、ぜひ、ご自分で勉強して
いっていただきたいと思います。今、如来の法を正しく継いでいられる人はいません。
しかし、如来の本は残っています。その本を読み、実践していくしか如来の法が分かる方
法はありませんが、いずれ大きな奇跡が起こることになります。起こることになりますが、
その奇跡を理解するには法を知る以外にありません。一人でも多くの方が、大奇跡を目
の当たりにすることを、願ってやみません。どうぞ多くの方が、如来の法を理解されます
ように…。ありがとうございました。
# by gtskokoro | 2009-07-21 15:25
異次元の世界
出口王仁三郎という人がおります。この方は宗教家で「霊界物語」という81巻からなる本を
口述されたということで有名ですが、この方が口述された霊界物語の中には、天人、天女
がでてくる神界から、鬼や蛇がでてくる地獄界まで、様々なあの世の世界がでてきます。

この出口王仁三郎という方は、死後の世界すなわちあの世の世界を、多くの人々に知らせ
る使命を持って生まれてきた人でありましたが、残念ですが出口王仁三郎氏の霊界物語だ
けでは、多くの人にあの世(霊界)の存在を知らせるまでには至らなかったようです。現在
のほとんどの人が、死後の世界を信じていないのが、そのよい証拠ですが、しかし、科学の
世界で死後の世界(異次元の世界)や霊の存在、輪廻転生を認め始めた現代、科学の発
達が死後の世界を裏付けてくれることになり、もう数十年もすれば、死後の世界を信じない
人は非科学的で遅れた人達といわれるようになるでしょう。なぜなら現時点においてさえ、
死後の世界がないという根拠はまったくありませんが、あるという根拠はたくさんあるからで
す。

死後の世界の一番分かりやすいものが臨死体験でしょう。そんなものは夢だの幻覚だのと
文句をつける科学者も多いのですが、この臨死体験は一度心臓が止まって、死んだ人しか
体験してないことや、体験したことが、多くの人が非常に似通っているということが、死後の
世界を裏付ける一つの証拠となるのではないでしょうか。一度死んで息を吹き返した人が、
同じような夢や幻覚を皆が皆見るのでしょうか?親子、兄弟といえども同じような夢や幻覚
など、そうは見ません。臨死体験をただの夢だ、幻覚だ、などという科学者の根拠を聞きた
いものです。

臨死体験は、幽体離脱、トンネル体験、一生を振り返る、死者との再会、あの世(きれいな
花園など)にいる、光の存在など、幾つかありますが、臨死体験者が皆、同じような体験を
していることが、大きな特徴です。臨死体験の体験談をレイモンド・A・ムーディー・Jr.著
「光の彼方に」より抜粋してみましょう。

<私の心臓が止まったって言ってるのが聞こえたけど私は天井の所まで昇ったんです。そ
こからはみんな見えました。天井のすぐ下に浮かんでたから、私の体を見た時、それが私
だってわかりませんでした。それから、あれは私だってわかったんです。廊下に行ったらお
母さんが泣いてるのが見えました。どうして泣いてるのか聞いたんですけど、私の言うこと
が聞こえなかったようです。先生方は、私が死んだと思ってました。
それから、きれいな女の人が近づいてきて私を助けてくれたんです。私が怖がっているのが
わかったからなんです。私達はトンネルを通って天国へ行きました。あそこは、きれいなお花
が咲いています。神様やイエス様と一緒にいました。神様達は、私に、お母さんの気が動転
しているから、お母さんの所へ帰らなきゃいけないっておゃしゃったんです。一生をきちんと
終えなきゃいけないんですって。それで私は戻ってきて、目が覚めたんです。
私が通ったトンネルは、長くてすごく暗かったんです。そこをすごいスピードで通り抜けまし
た。トンネルの向こうに光が見えて、それを見た時、すごくうれしかった。私は長い間、またあ
そこに行きたいと思っていたし、今でも、死んだらあの光の所へまた行きたいと思ってるんで
す……。あの光はすごく明るかった>

このような体験例は、何十、何百とあり死後の世界を裏付ける証拠といっても、さほど問題
がないようにも思いますが……、まぁ唯物論の人達が多い世の中、なかなか、はいそうです
か、とはいかないのでしょう。では、死後の世界がないと言っている方の中で、死後の世
界がないという証拠を出せる方がいれば、ぜひ、その証拠を見せていただきたいものです。
死後の世界を認めていない科学者はたくさんいますが、死後の世界がないという証拠を見
せてくれた科学者を、私は一人も知りません。証拠もないのにないというのは非科学的だ
と思います。

私は如来の教えを学び、その如来が死後の世界すなわち次元の違った世界はある、とい
い、現在の心ある科学者が証明してくれた、有力な経験的証拠がたくさんあるから、死後の
世界はある、と言っているのです。根拠も証拠もなしに、ただ自分がそんな世界は信じられ
ないからない、と言っている人の意見とは違います。この世界は、死んでしまえばすべて終
わり、などという単純な世界ではありません。この世界は、物質の世界だけでなく、幾重に
も重なる非物質の世界、意識界(霊界)もあるのです。

あの世、すなわち死後の世界は存在します。そこが私達がやがて帰るべき、安住の地とい
うことになりますが、ただし、臨死体験にでてくるような天国ばかりではありません。
出口王仁三郎氏の霊界物語にでてくる、鬼や蛇がでてくる世界もあり、皆が皆、天国へい
けるわけではないのです。やったもん勝ちで、悪いことをしてもばれなきゃそれでいい、など
と思っている人は、この世で罰を受けなくても、死んであの世に行けば、いやでも自分の悪
行を反省させられる、恐ろしい世界が待っています。この世界に逃げどくなどありません。
死んでも自分でした悪行は、自分で償わせられるのです。この世で好き勝手生きることが、
いかに愚かなことであるかを知ってください。
天国へいくのも地獄へいくのも、この世の心と行い次第である、ということを知るべきでしょう。
# by gtskokoro | 2009-07-20 16:33
釈尊の慈悲と予言
シャリー・プトラーが亡くなると、弟のチェンダは遺骨の一部を持って、釈尊がいられる竹
林精舎に帰りました。釈尊は、その遺骨を手にして比丘達に説法をされます。
「比丘達よ、この遺骨は数日前まで汝らのために法を説いた、シャリー・プトラーの遺骨で
ある。彼は、如来と同じように法を述べて多くの人を導いた。彼の智慧は大きく深く、如来を
別にして世に比べるものはなかった。
彼は深く神理を知り、小欲にして閑静を好み、常に勇猛の心を持ち怯弱の心はなかった。
彼はまた争いを好まず、悪を避け常に禅定を修めて智慧を得た。彼の行くところは常に祥
福に満たされた。それは彼がよく邪法、邪教を降伏せしめて、正法を与えたからである。
汝ら比丘達よ、今一度この賢なるわが児の遺骨をみよ」
最愛の弟子であったシャリー・プトラーの遺骨を手にされ、法を説かれた釈尊のお気持ち
は、いかばかりであったでしょう。

それからまもなくして釈尊は、約五百人の比丘達を率いてナーランダに行かれ、シャリー・
プトラーが火葬された跡に立って黙然としていられました。釈尊はシャリー・プトラーのこと
を一人思い出していられたのです。出家して四十数年、そのほとんどを釈尊はシャリー・プ
トラーとともにいられました。遊行にでる時も、釈尊はシャリー・プトラーのグループと行動
をともにし、精舎で説法をされる時も、シャリー・プトラーは常に釈尊の側に控え、晩年の釈
尊は体の疲れがひどい時など「背中が痛くて横になりたい、今日の説法はシャリー・プトラ
ーにやってもらいなさい」と、度々説法をシャリー・プトラーに任せられました。
「シャリー・プトラーが生きているときは楽しかった」
シャリー・プトラーが亡くなった後、釈尊はよくこのような話を周りの弟子達にされました。
自分も涅槃に入る日が近いことを知っていられた釈尊は、シャリー・プトラーに習い、生ま
れ故郷のカピラに帰って死のうと決心されます。

釈尊は弟子のアナンを連れ、生まれ故郷であるカピラに向かって旅立ちます。
周りには多くの比丘、比丘達が従います。すべての弟子達は、これが釈尊との今生の別れ
になることを知っていました。
多くの弟子を連れて旅を続ける釈尊が、クシナガラの近くの町まで来たときに、その町に住
む鍛冶屋のチュンダが、釈尊のご一行に布施したいと申し出ます。そうしてチュンダは茸の
油いためを釈尊にだされ、それを釈尊は食されました。
その後、旅を続けた釈尊はクシナガラまで来ると、はげしい腹痛に襲われ、下痢をして血便
をされます。そして休みながらカクッター川のほとりまでこられ、そこで横になられます。ア
ナンは釈尊が水がほしいと言われたので、川に水を汲みに行きますが、その川は今しがた
五百台の商人の幌馬車隊が、通ったばかりで水が濁っていました。
それでアナンが、水が濁っていて汲めませんと釈尊に言うと、釈尊はもう一度行けば水は
澄んでいると言われるので、もう一度アナンが水を汲みに行くと、川の水はきれいに澄んで
いました。
釈尊は川の水を飲みながらアナンに「チュンダのところに行き、ブッダが悟りを開くときと涅
槃に入るときに、供養した者は天上界にいける、と伝えよ」と命じます。

なぜ釈尊は、こう言われたのでしょう。
それはチュンダを気遣ったからです。もしこのまま釈尊が亡くなれば、チュンダは多くの人に
責められたでしょう。おまえが、あのような油くどい物を釈尊にだされたから、釈尊は亡くなら
れたんだ、と、そう言われることがないよう、釈尊は心を砕かれアナンに、そう命じたのです。
また、こういうことを言う人もいました。
「八十歳にもなり胃腸も弱っているのに、うまいからといって油いためなどのくどい物を、自
分の腹の具合も分からず食べるてるようではだめだ」
こういうことを言う人は釈尊の慈悲の心を、まるで分かっていないのです。
釈尊はチュンダの真心をいただいたのです。チュンダが心をこめてだしてくれた茸の油いた
めを食べ、それで腹を壊して自分が死ぬことになっても、それは自分の死期が来ていたの
であり、決してチュンダの茸のせいではない、釈尊は物だけ肉体だけを見て食べられたので
はなく、チュンダの真心を食されたのです。チュンダは身分の低い者でした。それで自分の
体だけを思いチュンダの布施を断れば、チュンダはどう思ったでしょう。如来の慈悲の心とは
自分の体のことなど二の次にして相手の心を思うのです。釈尊の慈悲の心とは、そのように
広く深いものでした。

釈尊は、いよいよ自分の死期が迫っていることを悟られ、苦しい呼吸の中で最後の説法をさ
れます。周りにはアナンをはじめマンチュリヤ、カッチャナー、ウパリ、スブティー、マイトレイ
ヤーなどの高弟が控えます。
「私の説いた法は、そなた達の心に永遠に残るだろう。この法を、迷える衆生の心にしっかり
と教え、救済しなくてはならない。それが比丘、比丘尼の道である。私の肉体は滅びても心
は常にそなた達のそばにいるのだ。生あるものは必ず滅する、そのことを悲しんではならな
い。正道を多くの衆生に説き、苦しみから解脱させることが、大切なことである。それが私
に対しての報恩ともなるのだ。やがて私の法はマンデヤ、デイシャ(中国)に伝わり、ジャブ
ドウバーのケントマティーに伝わるだろう。私はその時、多くの弟子達と共にまた生まれ変わ
って、この道を説こう」

釈尊は、こう最後の説法をされ、涅槃へと旅立たれます。釈尊の教えである仏教は、釈尊の
予言通りインドから中国に渡り、そうして日本に伝わります。
釈尊は最後に、また生まれ変わってこの道を説くと予言されたのに、涅槃に入った釈尊は生
まれられることはないと、現在は言われています。
しかし、釈尊はジャブドウバーに生まれ変わって法を説く、と予言しておりました。それを伝え
たのがマイトレイヤー(弥勒菩薩)で、それをもとに弥勒菩薩下生経というお経までつくられる
ことになりました。現在の弥勒菩薩下生経の中には、釈尊がジャブドウバーに生まれ変わる
とは書かれてありませんが、仏教学者の間では、ジャブドウバーとは南インドのことである、
という意見が多いようです。

北インドにでられた釈尊が、今度は南インドにでられるということは考えられないこともありま
せんが、実際は違います。
ジャブドウバーとは、南インドのことではなく日本のことであったのです。
# by gtskokoro | 2009-07-17 16:57
シャリー・プトラー⑥
シャリー・プトラーが釈尊の弟子となって、数十年の月日が流れました。釈尊の右腕とい
われ、釈迦教団筆頭の弟子として釈尊にもっとも信頼され、多くの人に慕われたシャリー
・プトラーも、やがて死を迎えなければならない時がきました。

釈尊はパタリープトラ(現在のパトナ)からガンジス河を渡り、べッサリーに行かれそこに
あるベルツー村で雨期を過ごされました。このとき釈尊は、いよいよ涅槃が近いことを周り
の者達に告げられ、重い病気になります。暫くして元気になられた釈尊は祇園精舎にい
かれ、それからラジャグリハの竹林精舎に帰ってこられました。
シャリー・プトラーは、釈尊の入滅の近いことを天上界から教えられていました。
シャリー・プトラーが、自分に死ぬ時が近づいたのを感じたのは、釈尊が竹林精舎に帰っ
て来られたその時でした。そうして母のことを思います。
「老いたる母に私は十分親孝行してこなかった。最後に親孝行して自分が生まれた、その
部屋で死にたい」
このときシャリー・プトラーの母は、元気に故郷にいました。

シャリー・プトラーは、静かに釈尊の下にまいります。
「ブッダ、私の死ぬ時がいよいよ来たようです。どうぞ、私がナーランダに帰ることをおゆる
し下さい」
しかし、釈尊は何も言葉を発せられませんでした。このとき釈尊はシャリー・プトラーの心
をすべて知っていられました。知っていながら、それでも釈尊は何も話されませんでした。
それは釈迦教団創立以来、一番自分に尽くしてくれたシャリー・プトラーと、ここで今生の
別れをすることが忍びなかったからです。
シャリー・プトラーは三度申し上げると、やおら釈尊は口をひらかれます。
「シャリー・プトラーよ、御身はどうしてそんなに死を急ぐのか。御身はなぜここにとどまる
ことを望まないのか」
「ブッダよ、この頃、天上界の方々が私の前に現れて『釈尊は齢八十に向かわせられる、さ
れば涅槃に入る日も久しくはない』と教えられました。私はブッダが涅槃に入られるのを見
るに堪えません。そのうえ私は、いつかブッダから過去の諸仏の最高上座の弟子は、必ず
仏に先だって涅槃に入ると聞いたことがあります。ブッダよ、どうぞ、わが入涅槃をお許し下
さい」

釈尊はジッとシャリー・プトラーの言葉を聞いていられました。釈尊は自分の入滅を悟って
いながらも、最愛の弟子の死を悲しまれます。
「シャリー・プトラーよ、御身は先にいくのか。御身はよく入涅槃の時を知った、どこで死ぬ
つもりであるのか」
「まだ故郷に母が健在であります。その母のもとに帰り、私が生まれましたその部屋でと思
っております」
それを聞いた釈尊は、最後にシャリー・プトラーに言われた。
「それならそうするがよい。御身はわが弟子の中で並びなき者であった。比丘、比丘尼達の
ために最後の説法をするがよい」
多くの比丘、比丘尼達が集められシャリー・プトラーの最後の説法を聞きます。
「汝ら思うがよい。如来が世に出たまうこと稀である。信を得て如来の法を学ぶこともまた至
難である。この世は無常である。汝ら一心に道を修めて苦境をのがれよ」
シャリー・プトラーは話終わると、竹林精舎に帰り身の周りを整理して、鉢を持ってシャリー・
プトラーの一番下の弟、チェンダを従え竹林精舎をでます。多くの比丘、比丘尼達が途中ま
で従いました。

夕暮れ時にナーランダに着いたシャリー・プトラーは、自分の家に帰り生まれた部屋に入り
ます。仏典にはシャリー・プトラーのこの世の最後にあたり、母のため母が釈尊に帰依され
るために、ナーランダに帰ったと書かれてありますがそうではありません。
母シャリーは、自分の子供が釈尊の右腕として活躍していることを知っていました。また、
釈尊は度々ナーランダでシャリー・プトラーの求めに応じて説法もされ、シャリーも十分に
釈尊の教えも分かっていたのですが、夫はナーランダの村長でバラモンの指導者でもあり、
ナーランダの村民の中には釈尊の教えに従わない者もいました。ナーランダ村をまとめて
いくためには、シャリー・プトラーの母といえども、すべてを挙げて釈尊に帰依するというわ
けにはいかなかったのです。
シャリーは大きく成長した、わが子の死を、みとらなくてはならない立場に立たされたことを
悲しみます。そうして偉大なわが子を育てさせていただいたことを神に感謝します。
シャリー・プトラーの死を惜しむ人達が集まり、そんな中シャリー・プトラーは大勢の人々に
惜しまれつつ、この世を去ります。遺骸は火葬され七日間供養が続きました。
シャリー・プトラーを慕う人々が釈尊の許可を得て、シャリー・プトラーの火葬された後に、
壮麗な塔を建てました。

それから二百年後、アショカ王があまねく仏蹟を巡り、シャリー・プトラーの塔にも供養して、
次のような偈(げ)をもってシャリー・プトラー(サリープッタ)の徳を称えられました。


            我、サリープッタを礼し、
            もろもろの恐怖より解脱す
            その名、世にあまねく
            智慧、この世に等しきもの
            あることなし 
# by gtskokoro | 2009-07-16 15:33
シャリー・プトラー⑤
祇園精舎が布施された時のことです。この祇園精舎を建てるにあたり、設計者に選ばれ
たのがシャリー・プトラーでした。
だがここで問題が起きます。釈迦教団が精舎を建てるということで、バラモン教の人々が
大反対を起こしたのです。この頃はまだ釈尊の名声も、祇園精舎を建てることになったコ
ーサラ国までは知られていませんでした。バラモンの人達にしてみれば、どこの馬の骨と
も分からない連中が、大きな精舎を建てるというのですから面白いはずがありません。

何度も話し合ったのですが、結局話がつかず論議で決着をつけることになりました。
当時のバラモン教徒は論議をこととしていました。この論議に負け自分の家も名声も失っ
てしまう者もいました。この頃のインドの宗教はバラモン教のみであり、法を説くというより
も、ほとんどは祈祷呪術宗教になっており、その方法によっていくつもの分派に分かれて
いました。当時、バラモンの遊行者同士の議論は珍しいことではなかったのですが、新た
に興った仏教と在来のバラモン教との公然とした論議は初めてのことであり、多くの人が
好奇心を持って集まりました。

論議は七日後と決まり、シャリー・プトラーは論議の日まで、釈尊から聞いた法を繰り返し
思い出し、瞑想して仏法により多くの人が救われていくことを念じていました。シャリー・プ
トラーは、相手の言葉や態度によって、心が動かされるということはまったくありませんで
した。相手が感情的に興奮すればするほど、ますます冷静に心を澄ませられる人でした。

いよいよ対決の日がきました。バラモンの代表者は「赤目バラモン」と呼ばれる人物です。
人と論議しているとその目の周りが赤くなり、底光りするその異様な眼に睨まれると、それ
だけで相手は委縮してビビってしまう、そんなところから「赤目バラモン」と呼ばれていまし
た。
当時、富と名声をほしいままにしていたバラモン教が、できたばかりの教団に負けるわけ
にはいきません。このような重大な論議の代表者に選ばれた赤目バラモンは、コーサラ
国きっての大物であり、過去何十人ものバラモンの修行者達を論破してきた猛者でした。
シャリー・プトラーも優れた人物として名は知られていたのですが、大バラモンとできたば
かりの宗教の一弟子とでは、余りにも格が違いすぎて相手にならないと思われていまし
た。しかし、勝負は一瞬で決まります。シャリー・プトラーと赤目バラモンが対峙し、お互い
眼と眼を合わせた瞬間、赤目バラモンはシャリー・プトラーの威光に打たれ、思わず眼を
伏せ、ついには頭を上げることができなくなってしまったのです。

丁度それは剣の達人同士が真剣勝負をするときに、お互いの眼を見ただけで相手の力量
が分かり、勝敗が決してしまうのと同じで、まことにあっけない勝負でした。ただ集まった群
衆が分かることといえば、シャリー・プトラーの体が大きく宇宙一杯に広がったように見える
のに対し、赤目バラモンの体は、それまでは大きく見えていたのに、小さく小さく見えてくる
ことでした。
群衆はひたすらシャリー・プトラーの威徳に感じ入り、このことによりシャリー・プトラーと
釈迦教団の名声はコーサラ国全土に広がり、この地に祇園精舎がつくられることになり、
仏教は北インド一帯に広がっていくことになりました。

また釈尊の弟子であり従兄弟でもあったダイバー・ダッタが、釈尊が自分を釈迦教団の後
継者に指名してくれなかったことに腹を立て、釈迦教団を割って独立の教団をつくろうとした
時のことです。
ダイバー・ダッタは、釈迦教団の新参の修行僧五百人をそそのかして、連れ出します。する
と、その一番最後にシャリー・プトラーがついていきます。ダイバー・ダッタは釈尊の弟子の
中で、筆頭であったシャリー・プトラーがついてきたということでいい気になり、シャリー・プト
ラーに説法をさせます。するとシャリー・プトラーはとうとうとダイバー・ダッタのことを褒め、
あまりに褒められるのでダイバー・ダッタは気持ち良くなり、眠くなって眠ってしまいます。
そのすきにシャリー・プトラーは五百人の弟子達を説得し、全員を連れ帰ったのでした。
シャリー・プトラーは常に釈尊とともにいて、釈尊の気持ちを一番理解し行動できる人物で
した。

ある人が釈尊に「ブッダが亡くなったとしたら誰が後継者となりますか」と聞くと、釈尊は「そ
れはシャリー・プトラーである」と答えられました。
シャリー・プトラーは、釈尊の教えをより分かりやすく多くの人に語りました。シャリー・プト
ラーがまとめた釈尊の教説は、三百~四百年伝えられ続けて、シャリー・プトラーは般若
心経、法華経、阿弥陀経など、ほとんどのお経に「舎利子」「舎利弗」の名で、書き記される
ようになり、シャリー・プトラーの存在は、後に仏教を知る人々に多大な功績を残したのであ
ります。
# by gtskokoro | 2009-07-15 15:56