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■代表者 大矢由紀夫
 
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愛知県名古屋市熱田区
大宝一丁目1番1号
ヴェルクレート日比野A棟216号
■TEL&FAX (052)683-5150
■E-mail info@gts-kokoro.jp
■定休日 土、日曜日
■受付時間 9:00~18:00(予約優先)
釈尊の慈悲と予言
シャリー・プトラーが亡くなると、弟のチェンダは遺骨の一部を持って、釈尊がいられる竹
林精舎に帰りました。釈尊は、その遺骨を手にして比丘達に説法をされます。
「比丘達よ、この遺骨は数日前まで汝らのために法を説いた、シャリー・プトラーの遺骨で
ある。彼は、如来と同じように法を述べて多くの人を導いた。彼の智慧は大きく深く、如来を
別にして世に比べるものはなかった。
彼は深く神理を知り、小欲にして閑静を好み、常に勇猛の心を持ち怯弱の心はなかった。
彼はまた争いを好まず、悪を避け常に禅定を修めて智慧を得た。彼の行くところは常に祥
福に満たされた。それは彼がよく邪法、邪教を降伏せしめて、正法を与えたからである。
汝ら比丘達よ、今一度この賢なるわが児の遺骨をみよ」
最愛の弟子であったシャリー・プトラーの遺骨を手にされ、法を説かれた釈尊のお気持ち
は、いかばかりであったでしょう。

それからまもなくして釈尊は、約五百人の比丘達を率いてナーランダに行かれ、シャリー・
プトラーが火葬された跡に立って黙然としていられました。釈尊はシャリー・プトラーのこと
を一人思い出していられたのです。出家して四十数年、そのほとんどを釈尊はシャリー・プ
トラーとともにいられました。遊行にでる時も、釈尊はシャリー・プトラーのグループと行動
をともにし、精舎で説法をされる時も、シャリー・プトラーは常に釈尊の側に控え、晩年の釈
尊は体の疲れがひどい時など「背中が痛くて横になりたい、今日の説法はシャリー・プトラ
ーにやってもらいなさい」と、度々説法をシャリー・プトラーに任せられました。
「シャリー・プトラーが生きているときは楽しかった」
シャリー・プトラーが亡くなった後、釈尊はよくこのような話を周りの弟子達にされました。
自分も涅槃に入る日が近いことを知っていられた釈尊は、シャリー・プトラーに習い、生ま
れ故郷のカピラに帰って死のうと決心されます。

釈尊は弟子のアナンを連れ、生まれ故郷であるカピラに向かって旅立ちます。
周りには多くの比丘、比丘達が従います。すべての弟子達は、これが釈尊との今生の別れ
になることを知っていました。
多くの弟子を連れて旅を続ける釈尊が、クシナガラの近くの町まで来たときに、その町に住
む鍛冶屋のチュンダが、釈尊のご一行に布施したいと申し出ます。そうしてチュンダは茸の
油いためを釈尊にだされ、それを釈尊は食されました。
その後、旅を続けた釈尊はクシナガラまで来ると、はげしい腹痛に襲われ、下痢をして血便
をされます。そして休みながらカクッター川のほとりまでこられ、そこで横になられます。ア
ナンは釈尊が水がほしいと言われたので、川に水を汲みに行きますが、その川は今しがた
五百台の商人の幌馬車隊が、通ったばかりで水が濁っていました。
それでアナンが、水が濁っていて汲めませんと釈尊に言うと、釈尊はもう一度行けば水は
澄んでいると言われるので、もう一度アナンが水を汲みに行くと、川の水はきれいに澄んで
いました。
釈尊は川の水を飲みながらアナンに「チュンダのところに行き、ブッダが悟りを開くときと涅
槃に入るときに、供養した者は天上界にいける、と伝えよ」と命じます。

なぜ釈尊は、こう言われたのでしょう。
それはチュンダを気遣ったからです。もしこのまま釈尊が亡くなれば、チュンダは多くの人に
責められたでしょう。おまえが、あのような油くどい物を釈尊にだされたから、釈尊は亡くなら
れたんだ、と、そう言われることがないよう、釈尊は心を砕かれアナンに、そう命じたのです。
また、こういうことを言う人もいました。
「八十歳にもなり胃腸も弱っているのに、うまいからといって油いためなどのくどい物を、自
分の腹の具合も分からず食べるてるようではだめだ」
こういうことを言う人は釈尊の慈悲の心を、まるで分かっていないのです。
釈尊はチュンダの真心をいただいたのです。チュンダが心をこめてだしてくれた茸の油いた
めを食べ、それで腹を壊して自分が死ぬことになっても、それは自分の死期が来ていたの
であり、決してチュンダの茸のせいではない、釈尊は物だけ肉体だけを見て食べられたので
はなく、チュンダの真心を食されたのです。チュンダは身分の低い者でした。それで自分の
体だけを思いチュンダの布施を断れば、チュンダはどう思ったでしょう。如来の慈悲の心とは
自分の体のことなど二の次にして相手の心を思うのです。釈尊の慈悲の心とは、そのように
広く深いものでした。

釈尊は、いよいよ自分の死期が迫っていることを悟られ、苦しい呼吸の中で最後の説法をさ
れます。周りにはアナンをはじめマンチュリヤ、カッチャナー、ウパリ、スブティー、マイトレイ
ヤーなどの高弟が控えます。
「私の説いた法は、そなた達の心に永遠に残るだろう。この法を、迷える衆生の心にしっかり
と教え、救済しなくてはならない。それが比丘、比丘尼の道である。私の肉体は滅びても心
は常にそなた達のそばにいるのだ。生あるものは必ず滅する、そのことを悲しんではならな
い。正道を多くの衆生に説き、苦しみから解脱させることが、大切なことである。それが私
に対しての報恩ともなるのだ。やがて私の法はマンデヤ、デイシャ(中国)に伝わり、ジャブ
ドウバーのケントマティーに伝わるだろう。私はその時、多くの弟子達と共にまた生まれ変わ
って、この道を説こう」

釈尊は、こう最後の説法をされ、涅槃へと旅立たれます。釈尊の教えである仏教は、釈尊の
予言通りインドから中国に渡り、そうして日本に伝わります。
釈尊は最後に、また生まれ変わってこの道を説くと予言されたのに、涅槃に入った釈尊は生
まれられることはないと、現在は言われています。
しかし、釈尊はジャブドウバーに生まれ変わって法を説く、と予言しておりました。それを伝え
たのがマイトレイヤー(弥勒菩薩)で、それをもとに弥勒菩薩下生経というお経までつくられる
ことになりました。現在の弥勒菩薩下生経の中には、釈尊がジャブドウバーに生まれ変わる
とは書かれてありませんが、仏教学者の間では、ジャブドウバーとは南インドのことである、
という意見が多いようです。

北インドにでられた釈尊が、今度は南インドにでられるということは考えられないこともありま
せんが、実際は違います。
ジャブドウバーとは、南インドのことではなく日本のことであったのです。
by gtskokoro | 2009-07-17 16:57
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